事業再構築を考える(7) 選択と集中―そこまでやるか

1.初めに

事業再構築を考えるにあたりどうしても選択と集中を迫られる局面が生じると思います。そこで、日本史上の典型的な選択と集中の事例を検討することによって、選択と集中を行うのに必要となる覚悟とは何かを考えていただければと考えています。

 

2.明治政府の無茶

明治政府の最大の関心事の一つに「ロシアの膨張にいかに対応するか」があったといってよいでしょう。ラクスマンの根室来航以来、ロシアの関心は天然の良港をもつ日本を活用することでありそのための南下政策をとります。また清帝国の弱体化を見越して満州に権益を持つようになり、ウラジオストクと旅順に太平洋艦隊を建設し、なぜかバルト海に第二太平洋艦隊を建設します。この状況下では日本のシーレーン防衛は心もとなくなり国境線の安全を脅かされることになります。日清戦争が挑戦をめぐる争いと見えますが、その本質は日本とロシアの権益の衝突があったことによって生じたものであり、日本としてはロシアの膨張は国家安全保障上飲めるものではありませんでした。

日清戦争後の軍事情勢によれば、ロシアはフランスと同盟を結び、世界一の陸軍と世界第二位の海軍を持つ軍事強国でした。ロシアに備えるため日本は平時で予算総額の3分の1を国防費に回し、予算総額の25%を海軍建造および維持費に回すという選択と集中を行います。日本にとって明治三六年・三七年戦争(これが日本における日露戦争の正式名称です)はその準備段階から戦争遂行に至るまで、持てるすべてを動員する戦争でした。特に、対露六・六艦隊を建造するにあたり帝国議会は軍艦拡張予算を承認しませんでした。これを受けて時の海軍大臣西郷従道陸軍大将は軍務局長山本権兵衛大佐に「まずは予算を転用して艦を作るのです。国民が許さなければ2人して二重橋で陛下に腹を切ってお詫びをするのです」といいます。少なくとも、彼らは私利私欲のためにこのような決断を行ったわけではありませんが、シーメンス事件で山本権兵衛が総理大臣の座を追われるのは歴史の皮肉でしょうか。戦争準備段階で予算総額の25%を海軍建造費に回しても、ロシア海軍を破るために東郷平八郎に託した、日本国民の血と汗の結晶である六・六艦隊建造にはまだ足りなかったのです。

この選択と集中によって日本国家と国民が支払った犠牲は多大なものでした。歴史にもしはありませんが、生きていたのであれば合理的な国家指導者になっていたであろう人物を根こそぎ心労で死亡させ、国家予算5年分の戦費の借金を負い、現在ほど社会保障のない中で現在より所得税及び各種物品税の税率は高かったことを考えるならば国の経済力からはかけ離れた世界第三位の海軍を維持することになります。この海軍の維持のために支払ったコストを他に回すと産業振興ができたかもしれませんが、その資源を海軍建造に回しました。この選択が太平洋戦争の遠因になります。

 

3.国鉄の強引

十河信二国鉄総裁が新幹線プロジェクトに投資することを決断した時、国鉄は持てる資源をすべて新幹線に投入します。このため、在来線に対する投資は必要最低限の更新投資の身に抑えられることになります。国鉄は国営企業ですから、その事業計画は予算という形をとって国会の議決を必要とします。このため、国会議員は選挙区対策として路線開設を国鉄に要求するようになります。これを鉄道ファンが「我田引鉄」と呼んでいますが、東海道新幹線プロジェクトが進行しているときはこの「我田引鉄」を許さないという態度をとります。

先に国鉄の予算は国会の議決を経る必要があるといいましたが、東海道新幹線プロジェクトのみに投資をするということは国会議員としては承服しがたいこともあり、当初見積額の1725億円が国会に提出され承認を受けます。もちろん、世界に前例のない高速鉄道の建設にあたりその必要背は十分に検討されるとともに、政治家への説得は十河国鉄総裁の役割になります。十河総裁は予算提出時点でこの金額では不足することを知っていた節がありますが、これ以上の予算増額は政治家の賛同を得ることができないと判断し、東海道新幹線建設費1725億円、うち8千万ドルは世界銀行からの借款として東海道新幹線プロジェクトは国会の承認を得ることになりました。ここでの重要な点は選択と集中を行うためにときには国会をも敵に回す、つまり主権者を敵に回すこともいとわないという覚悟を示したということです。

実のところ東海道新幹線の建設費は3800億円ですから、国会に提出した予算の2倍を超える建設費を使いました。十河国鉄総裁は新幹線プロジェクトの完成のめどがつくまではその地位にしがみつきます。これは技術的な部分については、島秀雄国鉄技師長以下の技術陣が安心して働けるように環境整備をするとともに、政治家対策を一手に引き受けたことによります。新幹線プロジェクトの実施期間中はあの手この手を使って総裁の地位にしがみついたようにふるまいましたが、開業のめどがついた時点で、新幹線問題の責任を取る形で1963518日国鉄総裁を辞任することになりました。このため、新幹線建設において主要な役割を果たした十河信二総裁と島秀雄技師長は1964年の新幹線開業を自宅で迎えることになります。

 

4. まとめ

 明治政府の対露戦争準備も、国鉄の輸送力増強プロジェクトもいずれも当時の国力の限界を超えたプロジェクトです。この実現のために六・六艦隊の建設と東海道新幹線の建設という技術的、経済的な困難をもたらすプロジェクトとして進められます。プロジェクトを進めた人間は功を挙げ名をなしという根性があったのかもしれませんが、少なくともこれらのプロジェクトに殉じる覚悟はあったといってよいと考えます。我々が選択と集中をするとき、ここまでの覚悟をもって行っているのかについて今一度問い直す必要があるのではと思い取り上げました。

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