太史公史書を読む(3) 易姓革命

 帝兎によって夏王朝が開かれ、湯王により商王朝が開かれ、武王により周王朝が開かれます。夏王朝が開かれるのと、商、周王朝が開かれるのでは理由が異なります。夏王朝が開かれるのは「禅譲」の性格が色濃く残っていますが、商王朝や周王朝が開かれるのは「禅譲」ではなく前王朝の最後の王である、帝桀や帝紂の圧制を打ち破るべく立ち上がった結果新たな王朝を打ち立てる形態をとります。このため、のちの王朝からすれば自らの武力クーデターの正当性を主張する必要が生じます。この武力クーデターの正当性を説明する概念として登場するのが「易姓革命」となります。

 特に、商王朝の最後の王である帝紂が行った「酒池肉林」は社会が乱れた例として用いられる事件です。酒池肉林だけが原因ではないのですが、王朝内では帝紂に対して「わが王朝が天命を失おうとしています。またあらゆる占いはわが王朝の天命はなくなったと出ている」という内容の説明がなされています。これらのことから自らの王朝の正当性がないということを説明し、そのことを聞き入れない帝紂が在位することによって武力クーデターが正当化されるというロジックです。

 さて、「商王朝」と述べていますが、太史公史書では「殷王朝」という名前を当てており、歴史教科書においても「商王朝」ではなく「殷王朝」という名前を使っています。殷という言葉にはあまり良い意味がないと聞いていますが、別によその国の歴史書の言葉をそのまま使うのもどうかと思います。私が「商王朝」という言葉を使ったのは彼ら自身がそう名乗ったこともあるのですが、我々の生活において「商」が顔を出していることも大きな理由です。「商業簿記」に「商売」、「三菱商事」、「商売」とありますが、これらの「商」の由来が「商王朝」にあります。商の人は「商売」を得意としていたことから、商業のことを「商業」と言っています(見事にトートロジーです)。というわけで、私は「商王朝」という言葉を使っています。

 本紀を読むと易姓革命が現れるのは夏王朝から商王朝に代わるときと商王朝から周王朝に代わるときです。それ以降に「易姓革命」が登場することはありません。易姓革命は「天命を受けた王朝が、天命を失った前王朝を倒す」ことを言いますが、天命を失ったことを知る根拠は歴史書編纂者の観点からする「圧政」がその合図となります。このため、酒池肉林は圧政の象徴として取り上げられることになり、易姓革命が根拠づけられます。なお、項羽が天下を失ったことについて、太史公は「天命がなかったのではなく自業自得である」と指摘し、「天命がなかったというのは自らを知らなかったからである」となかなか手厳しいです。

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