The Great Marianas Turkey Shoot システムをめぐる派手な戦い解題(5)

1.  いかにして帝国海軍は「七面鳥」になったのか

 

 1941年12月8日の時点で世界最強の空母機動部隊「第一航空艦隊」を持っていた帝国海軍は1944年6月20日の時点では「七面鳥」になっていました。このことを理解するに当たり、「空母機動部隊」なる言葉について理解をする必要があると思いますので、軍事評論家ではありませんが説明を試みます。2013年1月までの段階で「空母機動部隊」を編成したことのある海軍は世界で、帝国海軍、U.S.NAVY、ROYAL NAVYの3海軍しかなく、空母機動部隊同士の戦闘を実施したことのある海軍となると帝国海軍とアメリカ海軍に限定されます。

 空母機動部隊は必然的に生まれたものではなく、日本およびアメリカでほぼ同時に着想されますが、わが帝国海軍の場合は第一航空戦隊司令官小沢治三郎少将が「(これまではばらばらに配備されていた)航空母艦を一人の司令官の下に結集した集中攻撃で敵を殲滅する」という建議書を提出したことがヒントとなって、世界初(といわれている)の空母機動部隊「第一航空艦隊」が編成されます。この第一航空艦隊は当時日本海軍が持っていた第一線級母4隻を結集し(真珠湾攻撃時は2隻追加される)、ハンモックナンバーにより指揮官に提唱者の小沢治三郎中将ではなく南雲忠一中将が任命されます。

 空母機動部隊は真珠湾攻撃のときに錬度が最高潮に達し、以降ミッドウエーで母艦が4隻沈没する悲劇、ガダルカナルに始まるソロモンの死闘で航空資材を消耗しつくします。特に、ガダルカナルから開始されたアメリカ軍の反攻の意図を見破ることなくずるずると戦闘が行われますが、この際に我慢ならずに空母艦載機を陸に上げて戦闘に投入し消耗するということが行われました。ソロモンといってどこかわかる方はあまりいないと思いますが、ニューギニアから南東に広がる列島です。中部太平洋の南の縁という場所でしょうか。

 空母機動部隊の打撃力は航空機の性能に依存しますが、航空機は「人間が動かしている」という視点が必要です。母艦搭乗員は長さおよそ200メートルしかない飛行甲板から離着陸する技能を要求されますが、陸上航空機搭乗員はそこまでの技量を要求されません。正確なことはわかりませんが、母艦搭乗員は常に訓練をしないと離着艦の技能を維持することができないらしいのです。この為、現在でも横須賀を母港とする空母「ジョージワシントン」は入港時の離着陸訓練を行うために厚木を利用しています。

 国家公務員の中で最も養成するのに金がかかる職種は医者とパイロットだそうです。なぜ、帝国海軍が消耗によって技量を維持できなかったのかといえば、予備搭乗員がいなかったことによります。貧乏国家の悲しさ、徴兵義務のある人間すべてを兵役につけることができないですし、予備搭乗員を持つということすらできなかったのです。したがって、補充されるパイロットは促成養成になり、錬度が落ちていきました。これに対してアメリカ海軍太平洋艦隊はパイロットを3チーム、司令官を2チーム持っていました。

 さらに、5月に「第一機動艦隊」の各部隊が集結した場所ではアメリカの潜水艦が跋扈し、全体での訓練、特に母艦搭乗員の訓練ができない状態に陥ります。この結果、1944年6月時点で、帝国海軍の母艦搭乗員はある者は発艦のみできるが着艦できない、ある者は何とか着発艦できる状態で戦場に赴きます。しかし、それでも母艦搭乗員、当時の最高の技量の持ち主でした。残念なことに、昭和19年の段階ではアメリカ海軍と比較して空母と艦載機の絶対数が少なかったため、不足分は陸上機で対処する作戦となりました。

 七面鳥の要因はいくつかありますが、搭乗員の養成システムと予備要員の有無が大きなウエイトを占めていることは間違いないです。この背景には「経済力の差」がありました。

 

2.  小沢治三郎の独創

 

 1944年6月と言えば、アメリカは地球の裏側!”Operation Overlord”を行っていました。Operation Overlordは映画「史上最大の作戦」の題材にもなった作戦です。さらにカサブランカ会談の結果、「ヨーロッパ戦線に影響を与えない」範囲で太平洋戦線を維持することになっていましたので、アメリカから見れば中部太平洋戦線はあくまで二義的なものに過ぎません。付け加えるならば”I shall return.”と言って敵前逃亡した共和党員のマッカーサー元帥を立てる必要もあるため兵力を2分した状態で「史上最大の海戦」を迎えるのですが、こと海軍について言えば海兵隊の水陸両用兵団(3個海兵師団基幹)と第5艦隊(空母15隻、戦艦7隻基幹)の戦力は当時日本海軍が動員できた兵力の2.5倍ありました。この事態を受けて日本海軍は「第5艦隊殲滅」の目的のために、①基地航空部隊と空母部隊をあわせることにより航空兵力をほぼ互角にする(約1000機)、②機動部隊指揮官小沢治三郎中将の発案による「アウトレンジ戦法」にかける方針を採ります。少なくとも、第5艦隊が全滅すればルーズベルト合衆国大統領の首は飛び、厭戦気分になることは間違いないです。

 アウトレンジ戦法とは文字通り「射程外」なのですが、この場合のアウトレンジは「日本海軍機は飛行可能であるがアメリカ海軍機では飛行不能な距離に艦隊の間合いを取りアメリカ海軍の感染を殲滅する」と言うもので、常に「アウトレンジな状態」に艦隊運動をさせることが主眼に置かれます。さらに反復攻撃をするために着艦技能がある要因はすべて航空母艦に戻り、それ以外のものはマリアナ諸島の航空基地から反復することが小沢提督の採用した作戦プランとなります。この作戦を採用した背景には「対米戦力3割」をきった帝国海軍が自らの存在意義をかけたことにあり、そのため帝国海軍は稼動全兵力(空母9隻、戦艦5隻基幹:一部戦艦はパラオにて別行動だが、これとともに行動した航空機が全滅したので作戦活動に影響を与えた)をこの海域に結集し、帝国海軍における空母戦の権威である小沢治三郎提督に文字通り「すべてを託し」ます。

 6月19日の朝、小沢艦隊はアメリカ第5艦隊を発見し、予定通りの「アウトレンジ」を行うべく第一次攻撃部隊を発進させますが、この第一次攻撃部隊は日本海軍の意図しなかった方法で殲滅します。アメリカ第5艦隊は160キロ手前からレーダーを使って敵の来週を察知し戦闘機を無線電話で誘導し攻撃隊の大部分を撃墜し、打ちもらした航空機については空母の手前32キロにある近接信管を使った対空砲を使って撃墜し、空母まで到達したものは直衛戦闘機と近接信管で撃墜します。さらに、マリアナへ向かった航空機については基地上空で着陸態勢にあるときに(これは偶然)各個撃破されます。おまけにこの様子を小沢治三郎中将は夕方まで知ることができなかったのです。この総括は「現状を把握することなく机上の空論で作戦行動をとった」と言うのが妥当な線のようです。「帝国海軍最高の戦術家」小沢治三郎提督を以ってしても歯が立たなかったのですが、山本五十六元帥暗殺指令時にルーズベルト大統領が「山本に代わる人間はいない」ことを確認したことをあわせて考慮するならば、小沢治三郎中将を含め帝国海軍の指揮官はみな無能であったと言うことが、この敗戦の最大の要因だと考えられます。先ほど、職業人として養成するのにパイロットと医師が最も手間がかかるといいましたが、最高指揮官はそれに加え将来の予測を行いそれに備えた準備の中でのみ養成ができると言うことを示しています。実は、将来予測を誤ったときにどのように対処するのかと言うことも含めて訓練の対象となると言うことを知ることは容易ではありません。このことは経営者と助言者の養成にも通じるものがあると、私は考えています。

 

3.マリアナ沖海戦の評価

 

 

戦史叢書12 付表5

 マリアナ沖海戦は、真珠湾攻撃やミッドウエー海戦ほどの派手さはありません。比島沖海戦や坊ノ岬沖海戦のようなドラマもありません。しかし、モリソン博士が「潜在的に日本海軍が全滅した」と表現したのは、太平洋戦争における主力兵器である「空母機動部隊」をマリアナ沖海戦以降編成することができなくなった、これは艦載機と母艦搭乗員を養成するシステムが破綻した状態になったことを表現したものです。この「システム」の破綻は戦艦が沈むようなドラマがあるわけでもなければ、攻撃が成功したと言った派手さもありません。しかし、この海戦以降の帝国海軍は「戦艦の死に場所」を求めて行動したと言ってもおかしくはないでしょう。システムをめぐる争いの例としてマリアナ沖海戦を取り上げたのはこのような「システムの破綻」を指摘した歴史家が少なくとも2名はいると言うことで取り上げました。

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