序章 システムをめぐる派手な競争

システムをめぐる争いでわかりやすい事例として、はじめに太平洋戦争当時の帝国海軍を取り上げます。イメージとは異なり、帝国海軍は3年8カ月にわたる戦争期間中、そのほとんどはわけがわからずに過ぎて行ったと考えられています。真面目に戦争をしたといってよいのは真珠湾攻撃、ミッドウエー海戦、およびマリアナ沖海戦ぐらいです。これらの中で、真珠湾攻撃を異端、ミッドウエー海戦を傲慢とするならば、マリアナ沖海戦は無能という言葉がピタリ当てはまります。

マリアナ沖海戦は昭和19年に立案された、アメリカ軍に対する反撃作戦である「Z作戦計画」に基づき実施されました。当時の連合艦隊参謀長が「Z作戦計画書」をアメリカ側に奪われたのですが、そのことがどの程度影響を与えたのか不明です。ただ、当時の連合艦隊参謀長が東京へ復命した時に「ゲリラは作戦計画書に興味がなかった」と報告したことを海軍首脳は信じました。

マリアナ沖海戦は、日本海軍が満を持して行った作戦であり、意図した戦場を選んだこと、前線からの督促を無視してまで訓練した精鋭部隊を投入したこと、考えられうる最高の指揮官に部隊運用を託したこと、投入できる新兵器をすべて使ったことがほかの作戦と比較して目立つ違いです。ただ、先ほども言いましたが作戦計画そのものはアメリカに漏れており、ほぼ計画通りに作戦が遂行されました。

まず、この作戦が立案された時、日米間の艦隊における兵力差は2倍ありました。この状態を踏まえて作戦計画は立案されています。一つは基地航空部隊を活用することで航空兵力の均衡をもたらすこと、もう一つは航空機の能力差を最大限に生かすこと、最後に前線の督促を無視してまで育て上げた航空部隊の全部を投入することでした。

戦闘の経緯を言いますと、最高司令部の支離滅裂な戦争指導により基地航空部隊の半数が地上で消滅し、残り半数は司令官の飛行機に対する無理解で全滅させ、艦隊航空部隊はアメリカ側の戦争プランによりほぼ全数が撃墜させられます。この結果、日本海軍は戦力が枯渇しました。マリアナ沖海戦を問題視するべきは戦闘に負けたことではありません。意図した作戦を実施し、意図した場所から攻撃部隊を発信させたという報告を聞いた霞が関では祝杯を用意したという逸話があるぐらいに途中まで計画通りに遂行した作戦が全く機能しなかったことです。

日本は、戦闘遂行システム以外の、国家指導層選抜システム、上級士官教育システム、作戦立案システム、C4Iシステム、兵力整備・補給システムがアメリカと比較して劣っていました。特に、日本側の作戦計画はアメリカ側の戦闘計画の前に無力化され、部隊間の連携が取れずに各個撃破され、訓練不足で意図した作戦遂行ができないことを考慮していませんでした。この結果が” Great Marianas Turkey Shoot”「マリアナ沖の大七面鳥狩り」であり、日本軍は「近代戦闘を遂行するための潜在的な能力を喪失」することになったのです。

教科書でも、戦史研究家も北マリアナ諸島攻防戦はあまり注目されていませんが、日本が戦争遂行のために構築したシステムが無力であったことを示す事例として典型的であると考えています。想定していたことに対するマニュアルが機能しないのですから、想定外になると全くどうすればよいのかわからないというのが太平洋戦争における日本海軍の実態ではなかったかという意見さえ存在します。システムをめぐる争いは我々が思っている以上に恐ろしいものです。

なお、次回からしばらくは加護野流ではなく、マリアナ沖海戦について取り上げます。

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