近畿日本鉄道を題材にM&Aを考える (5)-『企業買収の歴史は天理軽便鉄道に始まる』

近鉄橿原神宮前駅 ある資料によりますと、「大阪電気軌道は1915年までには会社整理の見通しが立ったことから、翌年からは事業の拡大を目指した」といいます。そこでは「当社線は統合によって承継した路線が多く自社で開業した路線は営業キロで三割も満たない」といいます。

 

拡大の最初は大和西大寺駅から橿原神宮前駅間の中街道沿い路線の(再)出願です。出願の理由は1916年当時に鉄道のない大和郡山や田原本の利便向上、橿原神宮や神武天皇陵へのアクセス向上です。

 

さて、当時の民営鉄道路線を開設する際には軌道条例(のち軌道法)による特許、私設鉄道条例による免許、軽便鉄道法による免許、地方鉄道法による免許が必要となります。思うに鉄道路線は土地の独占利用と高い公共性が必要となるため、事前に事業内容を審査する必要があるということになります。

 

のちに大阪電気軌道畝傍線、現在の近鉄橿原線と呼ばれるこの路線の敷設特許には条件が付けられました。その条件とは「天理軽便鉄道(現在の近鉄天理線)及び大和鉄道の買収または損失補填」です。この段階では、大阪電気軌道は大阪と奈良における民営鉄道の域をとどまっていることになりますが、「大和鉄道の買収」という条件は、大阪電気軌道にとっては重大な意味を持つことになりますがそこは別の話です。

 

まずは、大和西大寺駅と橿原神宮前駅の大阪電気軌道畝傍線の開業では乗客が想定より多かったといいます。更に、橿原神宮前駅で吉野鉄道と接続することで吉野参詣が容易になりました。とは言うものの大阪地方から大和西大寺を経由して大和八木に向かうのは三角形の二辺を移動するので「大きく迂回」することになります。そのため深江(現在の布施)、大和西大寺、大和八木の各駅を頂点とする路線の開業を進めていきます。

 

これら一連の建設の中で最初に実行されたM&A(ある資料では統合と表現する)が天理軽便鉄道の合併です。その後、生駒鋼索道鉄道の合併、吉野鉄道の合併と続きますが、吉野鉄道の合併においては大阪鉄道という強力なライバルが登場します。

 

大阪鉄道は、現在は近鉄南大阪線として近鉄の路線を継承していますが、大阪電気軌道は標準軌(レールの幅が国際標準であることからこのように言う)、大阪鉄道と吉野鉄道は狭軌(レールの幅が国際標準より狭い。この場合は国鉄と同じ軌間1067㎜)であったため危機感を強めました。この危機に対処する方法として大阪電気軌道が編み出したのが「橿原から吉野間の短絡線免許申請」です。これには「吉野鉄道の損失補填または合併」が条件となり、この免許をダシに吉野鉄道を1928年に買収します。 実を言えば近鉄の路線拡大にはこのような合併がいろいろなところで顔を出します。その際に先頭に立って活動したのが井内彦四郎氏であるということです。

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